播州宍粟地酒販売 本家門前屋酒店
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宍粟の酒造り
貸し樽

<日本酒の起源と宍粟郡>
 米と麹で造る日本酒がいつごろ登場したのか、正確なところは分かっていないようです。邪馬台国(三世紀頃) の時代に、酒がかなり普及していたことは「魏志倭人伝」などから確かめられますが、どんな酒だったのかは不明のようです。
 米麹を用いた酒造りが書かれた最初の文献は奈良時代初期の「播磨国風土記」 で、「大神の御粮(みかれい)沾(ぬ)れてかび生えき すなわち酒を醸さしめて 庭酒(にわき)を献りて宴 (うたげ)しき」という一説があります。神様に供えた米飯が濡れてカビが生えたので、それで酒を醸し、神様に献上して酒宴を行なった、 という意味です。この場所は、風土記にある宍禾郡(しさわのこおり)の庭音村で、現在の一宮町能倉の庭田神社(伊和神社の末社で 延喜式神名帳に載る古社)と考えられています。また、この地は伊和大神と天日槍(あめのひぼこ)がこの地を奪い合ったために谷が曲がり 、奪谷と言われるようになったとも・・。もしかすると、天日槍が但馬へ立ち去ったあと、大神はこの地で慰労のための宴を開いたのかもしれません。
 いずれにしても、日本で最古の日本酒が作られた記述が あるのが、この宍粟郡なのです。これだけでもこの地域が 日本酒にとてもゆかりの深い所であることがわかります。


<宍粟の酒造り>
 宍粟郡が酒造りに非常にゆかりの深い地域であることは、播磨国風土記からもうかがわれますが、 この地域の酒造りについて古代から変遷を辿ることは文献もなく到底無理なことです。
 ただ、近世(江戸時代)以降の酒造りの歴史については、山崎の酒蔵である門前屋(現「老松酒造」:明和5年(1768)創業) の六代目前野善次郎道素(どうそ)が、 創業150周年を記念にまとめられた「宍粟郡酒造沿革雑記」(大正6年発行)に大変よくまとめられ、この地域の酒造業界の歴史を語る唯一のものと思われますので、以下そこから宍粟の酒造りを少し たどってみたいと思います。

  
宍粟郡酒造沿革雑記(大正6年発行) 



山崎町の起源
 「宍粟郡酒造沿革雑記」(以下、沿革記)は郡内の醸造元が全て山崎町に所在することから、 まず山崎町の起源について述べています。
 山崎町が町としての存在を認められる様になったのは天正(1573-1591)の頃、竜野領主羽柴侍従勝俊公の先見の明により、 当時まだ一農民村であった山田村(現山田町)と山崎村(現本町)の二ヶ村の百姓家屋を尽く商家風に改修して面目 新しい一筋の新町とされました。即ち今日の本町・山田町は当時の新町で、山崎町最初の町です。当時、山崎町が初めて町名を許された 下知状が山崎八幡神社の宝物庫に納められています。
 その後、慶長5年(1600)、池田輝政公領主のころ、山田山崎町の町制法が設けられ町制開始の年とされ、 この時から数えて300年に当る明治31年、当町開始300年祭が行なわれています。(八幡神社に碑あり。)その後元和元年 (1615)、現在の北魚町・富土野町・紺屋町・寺町・伊沢町などを拡張せられ、寛永八年(1631)、山崎町の西に作用町 (現西町・門前町(現門前))などを増町してほぼ完全な町(現山崎町山崎)となりました。


近世以降の宍粟の酒造り
 風土記の時代のような古代から端を発するか否かはさておき、人口の稀薄な山間僻地の宍粟としては比較的古くから酒造業が 盛んであった、その主要因として「天与の美禄たる清冷の水質が最もよく酒造に適合したという点であろう」と沿革記は述べて います。
 慶安年間(1648−1651)の話として、宍粟郡記からの引用で、
引原谷戸倉村に助左衛門といふわびしき農夫あり、母には早く離れ、齢八十ばかりの老父に奉て常にいたはり深く 愛して、いつくしめり、耕作の勉めに出でしに無心元やありけん、折々宿に立帰り、老父の機嫌を伺ひ変わる事もあらざれば、心を 安んず、老父常に酒を嗜めども、求むるに不自由、是をなげかしく思ひ、ある時友を語ひ、頼母子講と云う事を催し、銘々より 少宛銀を集め、馬を買ひ求め纔かの駄賃を取て酒を調へ常に老父にあたへて悦しむ」と…。江戸時代初期の頃、郡の最北なる 引原谷の辺境にこの事実の伝えられてあるのは本郡酒造史の研究に一好材料を提供している。老父の口に献するためにわざわざ 頼母子講を催したりとせば、決して安価な酒ではなかったようであります。宍粟郡記によると当時既に三方村に 一軒の酒屋があったようでありますから助左衛門テクテクここまで求めに行ったものでありましょう。またこの頃千草町 にも酒造熱が勃興していたと見える記録があります。と、沿革記は記しています。


酒造家と酒造株
 元禄年間(1688-1703)の記録に、酒造株の売買の断片的記録が残っています。
 酒造株とは封建時代の特産物で、幕府が年々全国を通じて造り出す酒造総高の平均を量るためと、その平均を保つ上において みだりに酒造の営業を許さぬ一方法として案出したのがこの酒造株です。全国を通じて合算した酒造総高を地域別に按分 して、江戸勘定奉行所よりそれぞれ一定の価格を以って、希望者にその酒造株を交付して営業を許したことのようです。 つまり封建時代の酒造家は一国の酒造株主であるという資格によって醸造もし販売もしたという事です。
 また、酒造株の売買は今日の会社の株と同じく株主自身が随意に何れへでも売買し得る事になっていたようで、 酒造株の売買譲与経緯をたどることで酒造変遷の一面を知る事ができます。
 安永2年(1773)の山崎町の酒造同業者の申合わせ文書が記録にあります。その連名には山崎屋嘉兵衛、英賀屋又兵衛、 米田屋源四郎、伊沢屋平吉、橋屋左兵衛、竜野屋十郎左衛門、觜橋屋嘉兵衛の7人があります。当時すでに営業していた当家及び 老松酒造の先祖である門前屋善太夫が連名にないのは、当時は門外(宮の下より西の地区)醸造家であったためで、 門内醸造家になったのはその7年後(安永9年)です。


今回はここまで。
おいおい下記につき加筆していきます。
(濁酒と清酒)
(山卸廃止もと仕込みの事)
(近代の醸造家)、・・・



 
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